シャトー・デ・アヌロー
Chateau des Annereaux



「ラランド・ド・ポムロール」銘醸地ポムロールの隣にあって、それまであまり目立たなかったこの地域でしたが、このシャトー・デ・アヌローがエリゼ宮のシェフ・ソムリエールに選ばれたニュースでたちまち注目を浴びるようになりました。
2018年のはじめに、シャトー・デ・アヌローのオーナーで醸造家のBenjamin Hessel氏は、霜の被害で、畑でほとんどの芽が被害を受けた姿を見て、もう我慢の限界、怒りは頂点に達していました。
毎年続く雹や霜、記録的な異常気象で、収穫量は減り続けており、今年こそは、と思っていた彼の気持ちを一瞬で打ち砕きました。この鬱憤を、彼はメールに書き連ねました。
環境問題のことや、毎年のブドウの被害について、激しくキーボードを叩き、そのメールを責任者へ送信しました。
責任者…つまり、時の大統領、Emmanuel Macron氏(エマニュエル・マクロン氏)です。彼は別に返事を期待していた訳ではありませんでした。
単に自分自身が落ち着きを取り戻せれば、そんな思いで書いたメールだったので、体裁を気にする事無く、ありのままの思いを書きなぐりました。

数日後、彼がメールをチェックすると、大統領官邸の首席ソムリエールである、Virginie Routis(ヴィルジニー・ルーティス)氏からのメールが届いていました。
メッセージは「エリゼ宮へあなたをお招きしたい。そこで一緒にあなたのワインをテイスティングしたい。」という内容でした。Routis氏は、そのメールをきっかけにこのワインに興味を持ち、テイスティングしたところ、素晴らしい味わいに驚き、ぜひエリゼ宮へ入れたい、と感じたのだそうです。
エリゼ宮の応接室に通されると、Hessel氏は畑でのこだわり、ワイン造りのこだわり、ここ数年の苦労など・・・思いのたけを許された30分に込め熱く語りました。
Hessel氏が語り終えると、Routis氏は複数のヴィンテージを飲み比べ、2つのヴィンテージを示し、その場ですぐにエリゼ宮からの正式なオーダーを申し込んだのです。
「まさか、鬱憤をはらす為に書きなぐった文章がきっかけとなって、エリゼ宮の御用達になるとは思わなかった!」
このサクセスストーリーは大変反響を呼び、多くの雑誌がとりあげました。
フランス国営テレビがラランド・ド・ポムロールの畑へカメラを抱えてやってきたりアメリカでもワインスペクテイターの取材が入ったり、とシャトー・デ・アヌローは一躍入手困難なワインの仲間入りを果たしました。
シャトー・デ・アヌローの歴史

このシャトーにまつわる歴史は非常に古く、波乱に富んでいます。古文書を見ると、このシャトーの前身となる建物の記録は、16世紀末に登場します。その後紆余曲折を経て、現在ヘッセル家が以前のシャトーの状態、一つのブドウ畑として買い戻し、再興を果たしました。
遅くとも1390年には、アヌロー家が現ラランド・ド・ポムロールにテンプル騎士団の指揮官として、ボルドーへ着任していました。
1598年、アヌロー家の大きな邸宅が建てられました。これが、現在のシャトーの原型となっています。
1660年には、ボルドーの有力者マレスコ家と婚姻によって結ばれ、以後アヌロー家はマレスコ家の庇護を受けることになりました。(後のマルゴー格付シャトー、マレスコ・サン・テグジュペリは、このマレスコ家出身の人物が築いたシャトーが、後に名前を変更したものです。)
ワイン造りが軌道にのり、徐々にその品質が認められるようになりました。

しかし、1869年、ボルドーを襲ったフィロキセラ禍により、畑はこのとき壊滅的な打撃を受けました。
1873年、当時このシャトーを運営していたCaroline Ponsot(若くして未亡人になった)は、このフィロキセラについて研究しました。
まだ、アメリカ産の台木に接ぎ木する方法が発見されていない当初、彼女はフィロキセラを駆除するため、はじめは二酸化硫黄に耐性を持つブドウの台木を使う方法について考察、実験を繰り返しました。
1879年、彼女の研究がアメリカ台木を用いた対応策に貢献し、ボルドーでの普及を助けた、との理由からリブルヌ市より金メダルを授与されました。
1897年に、彼女は自らの研究結果や台木の調査の結果をまとめ、フィロキセラ対策のマニュアルとして出版し、ブドウ生産者たちの悩みをいち早く解決できるよう力を尽くしました。
現代の栽培につながる、接ぎ木による方法の効果を説明し、その普及に貢献したことで、彼女は今も多くの人の尊敬を受けています。

1911年には、Carolineの息子のArmandが当時最先端の機器を導入し(温度管理機能つきの設備など)、現代に続くシャトー・デ・アヌローの基礎が築かれました。
しかし、その繁栄は長く続きませんでした。二度の大戦の影響を受け、畑は荒廃し、ワイン造りを続けることが困難な時期が長く続きました。
一時はぶどう畑のある場所に、市が学校をつくる計画が持ち上がった事がありました。
その時は交渉して事なきを得ましたが、いつまでもこの状態では、長らく続いて来たシャトーの歴史が途絶えてしまいます。

1969年以降、Annereaux一族に連なるHessel家は、当時複数の所有者が持っていた畑を徐々に買い取り、とうとう2004年に、かつての姿、一つのブドウ畑として、シャトーを再興することができました。
2005年からは畑全てを自然派栽培に切り替え始めました。2007年から完全にビオロジック栽培に移行し、ABマークの審査を受け始めます。3年に渡る定期的なチェックで完全にビオロジック栽培であることが認められ、2010年からABマークの認証をラベルに表示するようになりました。
2017年より、当主はDominique Hesselから、息子のBenjaminに代替わりしました。幼い頃からブドウ畑で働いていたBenjaminは、まだ年齢こそ40に達していませんが、すでにキャリアは30年を超えています。
最高級産地ポムロールに隣接する銘醸地 ラランド・ド・ポムロール

ペトリュスやル・パンといった、ボルドーで最も高値が付く、最高級ワインを生む村「ポムロール」。
このポムロール村にほど近い場所に広がるのが、AOCラランド・ド・ポムロールです。
ポムロールに特有な、鉄分を含む粘土質土壌と、砂利の多い水はけのよい土壌から構成されています。

酸化鉄を含む粘土質土壌から生まれる、複雑なアロマと凝縮感、滑らかな舌触り。
砂利質・砂質土壌からはしなやかな優雅さが、それぞれ表現されます。
ポムロールワインに比べ、一回り小ぶりなスケールになりますが、ボルドー右岸に特徴的なメルロ種の上質なものを探そうとする場合、このラランド・ド・ポムロールは重要な選択肢の一つとなります。